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第4回 ドイツ医学と相良知安

日本医家伝
日本医家伝
著者:吉村昭
出版社:講談社
ISBN:4062733552
出版年月日:1971年刊(講談社文庫改訂版2002年刊)

虹の懸橋
虹の懸橋
著者:長谷川つとむ
出版社:冨山房
ISBN:4572007756
出版年月日:2004年刊

 カルテ・ウイルス・ノイローゼ……。
 日本の医学用語にドイツ語に起源するものが多いことは有名です。しかし、ドイツ医学が導入された経緯や、その最大の功労者・相良知安についてはあまり語られることはありません。相良知安は幕末佐賀藩主・鍋島閑叟の侍医、維新後医学制度の確立に尽力した人物です。知安を主人公にした小説に篠田達明『白い激流――明治の医官・相良知安の生涯』(新人物往来社)がありますが、すでに品切れになっています。
 ドイツ医学採用は、相良知安という人なしではならなかったといってもいいかもしれません。事実、維新政府はイギリス医学を採用することにほぼ確定していたのです。
 その状況を吉村昭『日本医家伝』によって見てみましょう。
 幕末、日本に派遣されていた各国公使は、「日本に於ける自国の立場を有利に導くため、それぞれの外交的手腕を発揮して日本国内の幕府側、倒幕側の両勢力の力関係を注視」していました。なぜなら、その動向が各国の利権に繋がっているからです。いずれ紹介する予定の岩倉使節団が、欧米各国で歓待されるようすを見ていると、そこに常に各国の利権が渦巻いているのがわかります。
 そうした状況の中、「各国公使の中で最も巧妙に立ちまわったのはイギリス公使パークス」でした。
 パークスはすさまじい敏腕で、維新の元勲たちも手を焼いた人物です。大隈重信が新政府に重きをなす契機となったのはこのパークスとの互角の激論であったと言われています。
 そのパークスはイギリス公使館附医員ウイリスを鳥羽・伏見の戦いにおける倒幕連合側の負傷者の治療に派遣します。このウイリスの活躍はめざましく、心を打つものがあります。
 明治2年2月には医学校兼病院の長にウイリスが任じられました。そして、

……鳥羽・伏見の戦い以来のウイリスの献身的な努力とそのすぐれた医学技術が、新政府の医学管理者たちの間にも必然的にイギリス医学尊重となってあらわれていた。
 すでにオランダ医学は過去のものとなっていて、それに代るものとして、イギリス医学こそ新政府の採用するにふさわしい最もすぐれたものであると思われるようになり、イギリス医学はその後の日本医学界の主流的位置を占めるはずであった。
 しかし、採用寸前にその前に立ちはだかった医家がいた。それは、佐賀藩徴士相良知安と福井藩徴士岩佐純で、殊に相良は、激烈な態度でイギリス医学の阻止をはかった。

と、掌編「相良知安」の全体の3分の1程度を読み進めてはじめて知安の名が登場します。
 吉村昭『日本医家伝』は近代医学に貢献した12人の伝記小説集です。知安が登場するや、この一篇をあっという間に読ませてしまいます。考証にも定評のある著者の一篇を貫く力のようなものを感じます。なお、知安の「激烈な態度」は、大政奉還にも重要な役割を果たした旧土佐藩主・山内容堂(イギリス医学採用を奨める中心人物)に対し、「言葉は荒々しく」「すさまじい口調」で迫ったほどだったそうです。
 本書で「相良知安」は9番目に収録されていますが、「文庫版のあとがき」によると雑誌連載時は初回が「相良知安」であったことがわかります。知安の頑固さに触れながら「私は、このような知安が好きである」と著者はいいます。
 ちなみにこの12篇のうち、主人公の初登場が極端に遅いのは、知安の他、シーボルトの娘である「楠本いね」と、佐賀仁比山村の貧農の家に生まれた「伊東玄朴」です。
 「伊東玄朴」も短編ながら力作です。幕末の大事件・シーボルト事件では関係者のほとんどが死に至る中で、玄朴は奇跡的に命を拾っています。その背景にはおそらくさまざまな偶然が働いていることだろうと思いますが、取調にあたった役人が、佐賀出身の大学者・古賀精里の子息で幕府御儒者・古賀どう庵※の門人であったことに玄朴の運の強さを感じます。本篇はこのシーボルト事件から劇的に話を起こしています。
 長谷川つとむ『虹の懸橋』は著者の誠意に満ちた心に残る1冊です。入手できる本を探すことが一番大変なこのコーナーにとってめずらしく新刊本ですが、頁を開くと、すべての漢字に振り仮名がつけられていて昔の本のにおいもします(ここでは残念ながらサイトの都合で振り仮名を割愛します)。
 この本のテーマは「日本とドイツの交流」です。はしがきで「日独のあいだに虹のような美しい懸橋をかけた人々」「筆舌に尽くしがたい困難と戦った人々」と語るように、この「稀有な人々」を通して、現代の人々にむけての熱いメッセージを投げかけています。
 本書の前半に、相良知安とドイツ医学の採用への経緯について書かれています。『日本医家伝』と合わせて読むとまたあらたなおもしろさがあります。『日本医家伝』にも触れてあることですが、知安がドイツ医学の採用を訴えた背景には、多くの重要な医学書の原典がドイツ語版であることに気づいていたことがあります。

……蘭方医学の指導者的立場にある多くの者が、オランダ医学がドイツ医学の亜流であることを指摘しているのを、閑叟は熟知したうえで、相良の意見を取り上げたのである。

 なお、当時の別当(「今日流に解釈すれば文部科学大臣」)は鍋島閑叟、その下のポスト大学権大丞医学校取調御用掛が知安です。
 この本には、前回紹介したように、採用されたドイツ医学の教師として来日した『ベルツの日記』の著者についても、「エルヴィン・ベルツの日本における足跡」という章を設けて詳しく紹介されています。そして、荒井はつとの間に生まれた長男のトク・ベルツ(『ベルツの日記』の編者)の長男ハット・ベルツが日独修好条約締結百年記念で来日したときの『毎日新聞』(1962年10月21日)の談話を引用しています。

ヒトラーの時代、知の純潔≠ニいう理論が横行したとき、私は非アーリアンの血を受けているという、それだけの理由で色眼鏡で見られたことがありました。私は立派なサムライの子孫≠ナあることを立証しようとして士官となり、勇気を認められて進級しましたが、私の三人の弟たちはあるいは戦闘機乗りとして、あるいは東部戦線で皆戦死してしまいました。私の名のハトというのは、古代ゲルマン語で戦士という意味ですが、戦いが終わったいま、こんどは日独文化交流という平和の使者、つまり日本語のハト(鳩)として再び来日出来たのを心から喜んでいます。

 引用文の引用ですが、この本のテーマを象徴する意味で、しかも前回との関連が深いためにあえてあげました。
 またこの本によって、前回紹介した知安の弟・元貞は明治8年(1875)にベルリン大学で医学博士の学位を取得した後、解剖のメスで自ら切った指の傷から侵入した病菌のため、同年35歳で死んでいることを知りました。
 ドイツ医学採用が決まり、そのためのさまざまな整備に奔走していた知安は、明治3年(1870)7月、突然逮捕されます。好事魔多し、といいますが、本当の理由がなんであるのかよくわかっていません。彼が「医学教育組織から薩摩勢力を一掃したから」(『虹の懸橋』)なのか、ドイツ医学採用における最大の抵抗勢力・山内容堂に対する知安の「粗暴な言動に対する意趣返しだという噂」(『日本医家伝』)が本当なのか?
 知安は結局翌年11月無罪で釈放されますが、知安の人生はこの事件以後好転することはなかったようです。
 明治10年過ぎ頃の揮毫ではないかと推測していますが、副島種臣が知安の萱堂(母親か?)にあてて「宜汝子孫振々」と書いた額が遺されています。詩経・国風に見える句で、「なんじの子孫が盛んであれ」、つまり、子孫の繁栄を祈念するものです。相良兄弟の不幸を思うと哀しく映ります。

※ 古賀どう庵……こが どうあん。「どう」の字は「にんべん」に「同」。

(2004.11.20荷魚山人)