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第5回 近代化の功労者

 佐賀の歴史について書かれた著述がのきなみ絶版の中、佐賀の古書店から大変な労作の出版がなされています。
 『新訳考証 日本のフルベッキ』は、日本、ことに佐賀に大きな恩恵をもたらしたギドー・ヘルマン・フルドリン・フルベッキの伝記の翻訳書です。
 フルベッキはオランダ生まれで、アメリカに移住後、宣教師として来日しました。佐野の近辺にいた佐賀藩の人々に多大な恩恵を与えた人物です。佐賀そして日本の近代化について最も功労の大きかった人のひとりといえるでしょう。
 この伝記には、明治維新に活躍した人物の名前が多く見られます。それだけでなく訳者の懇切な注により、この本の価値が倍増しています。もっといえば、注と巻末の「資料編」だけをとっても、この本を棚に入れておく価値があるとさえいえるでしょう。
 たとえば、「資料編」で「大隈重信」を探すと、普通の人名辞典とはひと味違った略歴が紹介され、その人物の登場するページがすべて記されています。その最初の113ページを開くと、

英語で著された二つの偉大な文書、即ち新約聖書とアメリカ合衆国憲法の大半を、フルベッキ氏は将来を嘱望される生徒たちに長く教えた。その生徒の中には将来新政府で活躍することになる副島[種臣]や大隈[重信]などがいた。……

と出てきます。そしてその後読み進めると、

我々が次の章で見る一八六八年の革命によりもたらされた変化で、長崎は帝国の都市となり、幕府の学校は肥前の大名の援助を受けるようになった(18)。二つの学校(19)は平行して続けられていたが、フルベッキ氏は一日おきにそれぞれの学校で教えた。……

 「(19)」の注では、「幕府の済美館と佐賀藩が長崎に設立した致遠館のこと」と見出しがつけられ、小字で92行ものとても注とは思えないほどの長い記述がなされています。しかもその中身は要約もできないようなかなり濃い内容です。
 大隈や副島種臣が「致遠館」でフルベッキに学んだ時期がいつごろなのか、なんとなく疑問をもっている人は少なくないと思いますが、岩松要輔氏の論を踏まえながら、現在の研究状況を簡潔にまとめています。そして、二人は「致遠館設立以前に学んだ期間のほうが遥に長いというのが真相であるようだ」としています。
 さらに、第3回目に紹介した『大隈伯昔日譚』から引用して、

……副島の英学学修について大隈は「余は多少の廃絶もありたれと、已に三四年来英書を手にしたるを以て、是等の書を読むに彼[副島種臣]よりも容易なれとも、彼は就学より僅に五六ヶ月を過ごしたるのみなるに、余と同一に習了せんと存立しことなれは、日々一ページ乃至二ページをは大概尽く字引にて討尋し…」……

と、英学への着手が大幅に遅い副島が字書を引きながらコツコツ勉強している様子が引用されています。
 その後、フルベッキの書簡から有名な一文(明治元年四月一二日付)、「一年あまり前に副島と大隈の二人の有望な生徒を教えました」を紹介しています。ちなみにこのころ副島は40歳に近いはずです。
 その他、佐賀藩出身で読売新聞の創刊者の一人として知られる本野周蔵(盛亨)が佐賀藩士の中で最も早くフルベッキに接触していること、佐賀の乱で刑死する若きエリートたち―山中一郎、香月経五郎ら―の名前が「致遠館」の名簿に見えることなど、どこを開いても情報が詰まっています。
 ちなみに「(18)」の注には、この部分が著者グリフィスの誤りであることを指摘し、その理由を推測しています。
 最後に、前回とりあげた相良知安がドイツ医学の採用に向けて、フルベッキからの意見書を準備し、それが功奏したこととその情況の一端にも言及があることをそえておきます。

(2004.12.20荷魚山人)