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第9回 辰野金吾と唐津

東京駅の建築家 辰野金吾伝
東京駅の建築家 辰野金吾伝
著者:東秀紀
出版社:講談社
ISBN:4062113627
出版年月日:2002年刊

幕末パノラマ館
幕末パノラマ館
著者:野口武彦
出版社:新人物往来社
ISBN:4404028555
出版年月日:2000年刊

 幕末佐賀の近代化において、ある側面では佐賀本藩をリードした武雄領は温泉で有名です。
 その温泉街を象徴している武雄温泉楼門。この東洋風の建物を設計したのは唐津出身の辰野金吾であることもよく知られています。ちなみに、竜宮城のような(?)楼門には、小城出身で近代日本を代表する書家である中林梧竹が筆をとった「蓬莱泉」の額が掛けられています。
 武雄と佐賀鍋島家との関わりが深いことは前回も述べたとおりですが、おなじ佐賀県の中でもさまざまな背景があります。そういう意味で、「佐賀の」偉人図書館として、唐津について語るのは大変むずかしい面があります。

奥羽越列藩同盟の仙台、米沢藩らが降伏し、会津が落城するに及んで、前老中小笠原壱岐守長行は榎本武揚率いる旧幕府艦隊とともに、蝦夷地(北海道)へと逃れ去った。しかも船に乗り込む際、長行は江戸以来、随従してきた二十名の家臣たちに唐津へ帰藩するよう命じたというのである。
 「もっとも、胖之助ぎみは行動を共にされたらしい」
  藩士たちが噂する三好胖之助とは壱岐守の義弟で、意気盛んな十七歳。帰れという長行の命令に納得せず、新撰組に入隊する形で、軍艦開陽丸へ乗り組んだ。つづいて十名ほどの者が同様の行動をとる。残りの者たちは、ほとんどが会津、庄内藩の者たちと共に戦って命を落とし、生き残ったのは曾禰達蔵を含むわずか数名にすぎない。
  時まさに、明治と改元されたばかりの十月であった。

 この曾禰達蔵を重要な役柄として、『東京駅の建築家 辰野金吾伝』の「1 唐津」は語り出されます。徳川幕府の老中として活躍した小笠原長行は唐津藩の藩主で、新撰組副長・土方歳三が戦死した函館の戦いまで反政府軍と行動をともにします。
 この本ではそこまで語られてはいませんが、佐賀藩出身の副島種臣は岩倉具視と計って、上の東北での戦いに兵士を集めて新政府側として参加しています。新政府に重きをなす佐賀藩に対して、唐津藩の一部の人々は敵側にあたり(国元は新政府に恭順した)、維新後の唐津藩は苦境にありました。
 『東京駅の建築家 辰野金吾伝』は、その唐津から誕生した明治初期を代表する二人の建築家である辰野金吾と曾禰達蔵の物語です。
 老中の小姓で戊辰戦争における反政府軍の生き残りである曾禰、下級侍の出身で粗野な面を持つ二歳年少の姫松金吾(辰野家の養子になった)。この小説では、曾禰を尊敬し憧憬する金吾と彼を励まし応援する二人の関係があたたかく語られます。そして、若い二人の将来に決定的な影響を与えた、のちに困窮した国を救う老宰相・高橋是清(若いころ英語教師として唐津へ招かれていた)とのはつらつとした青春が描かれています。
 明治6年、わが国最初の本格的工業大学として設立された工学寮の第一回入学試験で曾禰は合格、辰野は補欠(二回目の試験でビリながら合格)になります。その後、曾禰は造家科へ、曾禰を慕う辰野も追うようにして同科へ進みます。
 そして工学寮が工部大学校と改称され、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルが教師に迎えられたことで二人の将来は大きく広がったといえるでしょう。
 著者は、教壇のコンドルに次のように語らせます。

「現代は功利的な時代であり、芸術的な価値は軽んじられています。しかし、わたしは、あくまでもアーキテクトの教育として、芸術面に重点を置こうと考えています。なぜなら、この功利に支配された時代、人びとが利益を求めるあまり、魂を失っている時代において、人間が本当に人間らしい心をもって生きていくためには、芸術によって、精神と感性を高めることが必要だからです」
「皆さんの国の作家たちのなかにも、簡潔な言葉を用いながら、読者の心にしみいる詩や文章を書く芸術家がいるでしょう。その作者はただ言葉の使い方が巧いだけでなく、精神の高貴さによって、人を感動させているのに違いありません。アーキテクトも同様なのです。力学や材料の知識によって、建造物は設計されますが、その出来栄えが人びとを感動させるのは、技術や建物の大きさ、装飾によってではなく、設計する者の魂の美しさによってなのです」

 本書には、日本近代が、あるいは世界の近代が抱えた問題、そして現代のわたしたちがより遠ざかっているとさえ思われるこの命題についての問いが静かに流れています。
 優秀な成績で辰野を牽引した曾禰とガリ勉の辰野との成績が、卒業試験ではじめて逆転します(もちろんここにはコンドルの採点のあやがからみますが)。この一回の試験結果によって、辰野は留学、そして帝国大学教授へ、その後は教授を辞職し日本初の建築事務所を立ち上げるなど世間を驚かせました。その後も日本建築界の重鎮の地位を失うことなく生涯を閉じました。そんな中でも、二人の関係は生涯絶えることなくつづきます。
 大正8年3月、臨終を間近に、使用人にも一人一人声を掛けた辰野の側には、生涯敬愛した曾禰の姿が美しく描かれています。なお、このシーンは辰野の長男、東京大学仏文科の名物教授で、小林秀雄の師である辰野隆(ゆたか)が「終焉の記」という名文に残しており、出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社・1999年、現在品切れ)に紹介されています。
 辰野の代表作である東京駅は、大正3年(1914)12月18日に開業式典が行われ、ときの首相・大隈重信の有名な演説は新聞などを通じて話題になりました。しかし、東京駅の評判は聞こえず、翌年には東京帝国大学を卒業したばかりの若手建築家によって「酷評」されます。
 明治初期の多くの建築物が失われる中、東京駅は太平洋戦争後も修復され、現在もその姿を遺しています。『東京駅の建築家 辰野金吾伝』では、東京駅の評価に対するさまざまな材料をそろえながら読者にその判断を委ねているように思えます。そして同時に、日本が抱えた近代という問題の複雑さを、その時代を生きた生身の人間の人生に語らせようとしているのかもしれません。
 さて、唐津藩主で幕府老中でもあった小笠原壱岐守長行は、幕末史には必ず登場する重要人物であるにもかかわらず、この人を紹介した本を挙げるのは容易ではありません。瀧口康彦『流離の譜』(講談社・1984年)や岩井弘融『開国の騎手 小笠原長行』(新人物往来社・1992年)がありますが、現在ともに品切れです。
 長行の評価は二分しています。どちらかといえば批判的な見解をよく目にするように感じますが、敗軍の将ですから、それも肯けます。経歴についても、解任されては、また就任するというふうで、幕府の中での位置の重さがうかがえます。
 江戸時代、ことに幕末についてスリルあふれる多くの論述を展開する作家である野口武彦に『幕末パノラマ館』があります。この本の「十九 海陸の激戦―― 長州戦争・小倉口の戦闘(上)」に小笠原長行が登場しています。というのも、幕府の長州征伐第二次派兵の総督こそこの長行だったからです。そして、この戦いにおける幕府の敗戦はその後の転落への一つの大きな契機となったといえるでしょう。そこでは敗軍の将・長行について、

……この人物は幕末政局の渦中で数々の政治的奇行をもって知られている。まず文久二年(一八六二)異例の抜擢で若年寄から老中格に進み、外国御用取扱を命じられ、将軍後見職となった一橋慶喜と共に入京していたが、同三年(一八六三)四月、生麦事件の処理のため江戸に戻る。イギリスの強硬姿勢に押されたかたちで、五月、独断で十万ポンドの賠償金を支払ってしまったことはすこぶる不評判だったが、結果的には戦争になるのを回避した英断だったといえる。
  そればかりではない。償金交付の事情を弁疎(言い訳)すると称して、歩・騎・砲兵千余人を率いて上京しようとしたのである。当時、十四代将軍家茂が、京都で尊皇派の人質同然になっている有様だったのを救い出そうとした意図があったと思われる。本人は淀で阻止された上、京都朝廷の圧力で免職されてしまったが、ともかくも将軍はその動きに助けられ、しばらくして江戸へ帰れた。……〔中略〕……火中の栗を拾うことが専門のような男だったのである。……

と述べた後、「ユニークな人物」「その都度衝動的に動いているようにも見えるし、変に筋が通っているようにも思える。終始一貫して、何だかよくわからないキャラクター」と語ります。このときの相手・奇兵隊の参謀は高杉晋作で、著者はこの攻防のさまざまな要素について資料をもとに分析しています。
 次の章では、相次いで休戦中の小倉に長行を訪ねたイギリス公使パークスとフランス公使ロッシュとの会談を再現してみせます。そして、幕府軍敗北への顛末を浮かび上がらせています。
 その他、「十五 幕府海軍の夜明け」の章では海軍伝習所における佐賀藩出身者の人数の多さと成績優秀についてもふれられているなど、佐賀にかかわらず、幕末日本の知見に富んでいます。
 さて、小笠原長行は前述のように函館戦争の後、国外亡命という噂がありましたが、実は江戸に潜伏していました。明治5年に自首しますが、罪には問われませんでした。
 『東京駅の建築家 辰野金吾伝』では、明治10年すぎに、もと長行の小姓であった曾禰達蔵が訪ねます。しかし、長行は隠棲して「わしは既に死んだも同然の人間だ」と語ります。
 近松門左衛門が幼いころ修行し、そのペンネームのよりどころとした唐津市の近松寺(滝沢馬琴や森鴎外らの説)の境内には小笠原記念館が設けられており、長行の書などが展示されています。その書からは、長行の教養の高さと知的な俊敏さのようなものを感じることができるように思えます。

(2005.4.20荷魚山人)