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第3回 回顧録と日記

 もう1冊は、明治9年(1876)に東大医学部のお雇い教師として招かれたドイツ人医師の『ベルツの日記』です。
 そこには当時彼が問診した明治の有名人の記録が多く見られます。その中の重要人物の一人が大隈です。明治14年(1881)6月21日の日記に、

……大隈は新日本の最も重要な人物の一人で、日本の財政を建て直すという困難な職務を担っているが、それはまるで孔だらけのおけに水をくみ入れるようなものだ。
 大隈はできるだけのことをやったが、この任務はあまりにも大きい。天性快活な人物だが、この二、三年の間に急に老けてしまって、今では少しせきが多い。四十歳代の前半という若さであり、大柄で、全然ひげがなく、ずるそうな眼をしているが、その態度には好感がもてる。

とあり、明治22年(1889)10月18日のめずらしく「夜十時」と時刻を記した日記は、「センセーショナルなでき事……」ではじまります。
 まさにこれが大隈暗殺未遂事件。駆けつけたベルツは患者である大隈の様子を記した後、その日の内に原因を断定しています。

凶行の原因――条約改正。大隈は、この国多年の宿願であった条約改正をなしとげようと思った。事実かれは、その目的達成の寸前にまでこぎつけ、ドイツ、アメリカ、ロシアとの新条約は、もはや締結されたも同然で、ただ批准を待つのみという状態にあった。この時、急に多数の日本人が不安をいだき始めたのである。内閣まで、このことで意見の相違による反目を生じた。かつては日本人すべてが望んでいた宿願を、多大の労苦と手段でついに達成することに成功した大隈は、今では、外人に国を売ろうとする国賊であるとか、その他のばかげた非難を浴びるにいたった。……
 枢密院議長の伊藤伯は、数日前に辞表を提出している。かれは、実にずるいキツネだ! かれは以前に条約改正を、今回よりもはるかに日本に不利な条件で締結しようとしていた。ところが今では、大隈を困らせようとかかっている。それというのも、伊藤は当時、この問題でつまずいたからである。……

 ちなみに、ベルツの日記にも名を記された、その場で頸部をかき切って自害した犯人・来島恒喜について、大隈は「……わが輩は、爆裂弾ぐらいで青くなるような腰抜けじゃない。そんなもの屁とも思っていない」と述べたあと、

……いやしくも外務大臣であるわが輩に爆裂弾をくわせて、当時の世論をくつがえそうとした勇気は蛮勇であろうと何であろうと感心するのである。
 わが輩が爆裂弾をくった当時の光景は、どんな風であったかというに、そりゃ実にさんたんたるものであった。君らは、爆裂弾の味は知るまいが、くわせたやつは、実に壮快だと感じたであろう。……
(『大隈重信は語る』)

 と度量を示していて、話術の大隈の面目躍如です。
 さて、ベルツは明治11年(1878)7月9日には、早くにロンドン留学を経験した鍋島侯(直大)に食事に招かれています。この豪奢で「洗練された社交振り」を見せる、侯夫妻(後年の日記で、その夫人を「日本一の美人として名高い女性」と記しています)も6歳の令息も英語がペラペラだったようです。またヨーロッパについての知識の豊富さに驚いています。そこに描かれた永田町の鍋島家の様子は明治初期と思えないほどハイカラです。
 これだけ引用を重ねても、まだまだ引きたい箇所が山ほどありますが、最後にどうしても紹介したい、名文があります。明治14年(1881)5月12日の日記。

午後、家庭悲劇の立会人となる。日本の最も優れた政治家兼学者の一人で、高潔な人格により一般に尊敬されている副島から、その一人息子のために診察を求められた。かれは威厳のある高貴な面差しの人で、ほとんどシナ人型に近く、しかもそれなりに美しい顔立ちである。だが、今では老人であり、それも早老の方で、長いまばらの白ひげがある。令息は全く絶望状態に陥っている。肺を病み、もはや余命いくばくもない有様だ。一年前に熱愛する母親を失ったが、それ以来この十九歳の美青年はしだいにやせ衰えていったすえ、今年の初めになって急激に発病したのであった。
  善良な旧い型の日本人である父親は、その並々ならぬ悲痛を超人のように抑えることを心得ていた。時々、苦しげにその口元がかすかにけいれんしてはいたが、しかし自己を抑制し、静かながらもしっかりとした調子で語っていた。どうか息子の命をせめていま数日か数週間のばすようにしてほしい――といわれた時、自分は全く同情にたえない気がした。あとでかれはいった「昨年、妻をなくしまして、それ以来は、子供だけが頼りで生きてきたのです」と。おそらくは、さらにこういいたかったのだろう――今では、それさえ失うのですと。だが、その自尊心がこの言葉をのみこみ、あえて悲しみを訴えなかった! 気の毒な、世にも気の毒な父親よ!
  このような場合、すべてを任せきった盲目的な信仰は、なんという幸福だろう! だが、副島はかかる信仰を持たないし、かれは来世を夢みない。かれは哲学者であり、思想家である。かれは運命に服従する!

 これがこの日の全文です。後年自らも愛娘を失い悲嘆にくれることとなるベルツが、緊迫した筆致で描くこの父親。その人こそ「正義によらねばならない、という考え」(『大隈重信は語る』)を基礎に外交で活躍した副島種臣です。
 紹介したようにベルツと佐賀人には浅からぬ因縁があります。
 ベルツが来日する背景には、ドイツ医学を採用する国の方針があったわけですが、多くの反対派と闘いながらドイツ医学の採用を訴えた不遇の医者・相良知安も閑叟の侍医でした。来日前、ベルツにライプチヒ大学病院で懇切な治療を受けた日本人留学生が知安の弟・相良元貞であることも不思議なものを感じます。そして、ベルツが招かれた東京大学医学部(当時は東京医学校)の構内には、当時はまだなかった知安の銅像(昭和10年建立)が現在はさびしく立っています。
 ドイツ医学導入の牽引者である当時の日本医学界の中心人物・相良知安はベルツの来日の時にはすでに、不明瞭な理由で投獄され、下級役人に落とされています。
 時は過ぎ、知安は不遇の中、明治39年(1906)にこの世を去ります。その3年後に伊藤博文が暗殺されます。日本人の妻とともにドイツに戻っていたベルツは、かつて「ずるいキツネ」と評した政治家にむけて、「伊藤博文をしのぶ」という追悼文を書き、日本で「比肩するもののない、最大の政治家」「老練無比」と謳いあげました。
 ある時点で語り起こされる回想と異なり、人が時間と場所とともに刻々と変わることの不可解さを、むしろそのほうが自然であたりまえだと説得力をもって教えてくれるのが、日記のおもしろさのひとつかもしれません。

(2004.10.20 荷魚山人)