偉人図書館
第8回 佐賀藩における長崎
女優・長崎ロシア遊女館
著者: | 渡辺淳一 |
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出版社: | 角川書店 |
ISBN: | 4045736131 |
出版年月日: | 2002年刊 |
著者: | 古藤浩 |
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出版社: | 書肆草茫々 |
出版年月日: | 2004年刊 |
『失楽園』で有名な渡辺淳一の全集の1冊に、「かさぶた宗建」という掌編を見つけました。ひょっとするとと思って、めくってみると果たして……。この掌編は、日本で最初に牛痘法種痘を成功させ、日本全国へいっきに広めることに貢献した佐賀藩・楢林宗建の伝記小説だったのです。
「天然痘ほど昔から人類を悩ませた病気はない」「日本の人口が江戸中期から増えなくなったのは、間引き、堕胎、飢饉などとともに、天然痘の流行で小児の命が奪われたのが原因である、といわれているほどである」と著者が記すように、天然痘は恐ろしい病気でした。人間に牛の天然痘を感染させるというジェンナーの牛痘法(1802年にイギリス議会で承認)の発見によって、1980年には人類からの根絶宣言が出されるに至りました。
この牛痘法が日本に伝わるのは1803年です。江戸時代の鎖国体制の日本にしては驚くほど早いという気がします。しかし、楢林宗建が牛痘法を日本で実施するためには相当な苦労がありました。この小説はその苦労について詳しく教えてくれます。その医学的な記述のおもしろさは、作者がもと医者だったことを思い出して納得がいきました。
もちろん、牛痘法成功の裏には鍋島直正の援護がありました。
杉谷昭『鍋島閑叟――蘭癖・佐賀藩主の幕末』(中公新書・1992、現在品切)は、鍋島直正の最期にふれながら、
明治四年一月にはいり流動食しか通らなくなり、腹痛や嘔吐なども激しく極度に衰弱してしまった。この状態にあっても、明治天皇がまだ種痘をされていないことを心配して、古川与一を通じて岩倉具視に進言したという。
と語っていますが、このエピソードからもその種痘に対する思いがひしひしと感じられます。
この小説ではふれられていませんが、楢林宗建は長崎の医家の二男で、佐賀藩の侍医格という立場で長崎に居住しました。医学だけではなく、蘭学のさまざまな文献を長崎から鍋島直正に納めていたようで、佐賀藩近代化の功労者という側面ももっています。
佐賀の先進性の背景には、西洋の窓口である長崎に近いという地の利があることはよく知られています。第5回の『新訳考証 日本のフルベッキ』に関連してふれたように多くの佐賀藩の若者が長崎で学んでいたのです。
このように佐賀の幕末維新は長崎をぬきにしては語れません。昨年刊行された『開国前夜の佐賀藩――ペリー来航と鍋島直正』は、佐賀藩における長崎の位置についても非常にわかりやすくまとめられた1冊です。
本書は、幕末の佐賀藩を取り巻く問題を日本や外国との関わりの中で平易に位置づけたという点で注目されます。幕末佐賀藩についての個々の知識のあいだを上手に橋渡ししてくれる好著です。解説の大園隆二郎氏が述べるように「鳥瞰図的」な視点が際立つとともに、著者の問題意識や思索の率直さとそれを探るための真摯な作業が背後にあることが窺えます。専門分野を極度に狭くかまえがちな歴史研究の実情にも示唆に富むもののように思えます。
幕末維新の日本の情況についても常に注意を向けながらまとめられている本書は、鍋島直正や佐賀藩を考えることが、教科書や日本史ガイドで知るよりも、はるかに幕末の日本の姿を鮮明にすることを教えてくれます。そういう意味で、佐賀という素材がもつ可能性の潤沢さをあらためて感じます。
また、幕末佐賀の突出した科学技術には佐賀本藩だけではなく、武雄領やその他の支藩などのめざましい活躍も見逃せないこと、そしてその相互の関わりについても目配せがなされています。
たとえば、鍋島直正の義兄で執政も務めた武雄領主・鍋島茂義は、天保3年(1833)、長崎の西洋砲術家・高島秋帆に家臣の平山醇左衛門を入門させ、その後自らも入門します。そして、
茂義は武雄に高島流の道場を開き、武雄領の家臣のみならず、本藩からも坂部三十郎(茂義の実弟で坂部家へ養子)が入門するなど、佐賀藩の中で先陣を切って西洋砲術の習得につとめていた。そして、直正もひそかに武雄領の動きを見守っていた。
とあり、「イギリスの長崎侵攻を予想して、西洋砲術を本藩へ導入することを決意」した鍋島直正は、天保11年(1840)、神埼での武雄領による西洋砲術の訓練を検分します。「非常に感動した」直正は、鍋島茂義を本藩の砲術指南役に、平山醇左衛門を蘭砲稽古取立に登用します。平山醇左衛門のその後の悲劇についてまでは詳述されていないものの、本書では、大砲で名を馳せた佐賀藩の背景が非常に明瞭に解説されます。
「香焼団結」についても、本書では概要をわかりやすく理解させてくれます。
たとえば、幸前伸『史説開拓判官島義勇伝』(島判官顕彰会・1978年刊、これも絶版です)の中で、島義勇が「香焼島守備隊長」であったこと、このことが「鍋島武士として最も誇り高い」ことが記されています。本書は、この香焼守備隊についても、まず鍋島藩の初期からの長崎警護をふまえて整理されています。長崎警護は佐賀藩と福岡藩の当番制でしたが、鍋島直正が長崎警護に力を注いでいく過程で、「さらに当非番にかかわらず長崎の現地に土着させて特別訓練を計画した。すなわち、香焼団結である」と出てきます。さらに、
当非番にかかわらず、武芸に秀でた五十人を選抜して、二年間、香焼島に駐屯させることにした。そこでは十班に分けて組長を置き、用船一隻ずつを与えて水練もしくは漁撈をなし、武芸所を設置して平日は武芸を鍛錬、または学問を講義。日を定めて六、十六、二十六日には「葉隠」読書会が開かれた。長崎で外国船を打ち払う場合、縦横に奮戦するために、心、技、体ともに不断の訓練を欠かさなかった。これを「香焼団結」と称した。
と簡潔に説明されており、前後の経緯をていねいに押さえてあるため、さまざまなことを体系的に理解することができます。
本書は幕末佐賀藩についての概要を知る上で有益であるだけでなく、当時の日本の情況を知る上でもわかりやすい1冊です。
幕末の佐賀を知るためには、長崎との関わりをより詳しく知ることが大切だということをあらためて感じさせられます。