偉人図書館
第12回 江藤淳と佐賀の近代
著者: | 江藤淳 |
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出版社: | 文春文庫 |
ISBN: | 4167366010 |
出版年月日: | 1984年刊(単行本1974年刊) |
著者: | 江藤淳 |
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出版社: | 講談社文藝文庫 |
ISBN: | 4061960245 |
出版年月日: | 2003年刊1988年刊(単行本1973年刊) |
勝海舟と西郷隆盛による江戸無血開城はしばしば歴史の美談として語られます。しかし、実際には「美談」というものにはほど遠く、この背後では熾烈な駆け引きやせめぎあいが演じられています。刻一刻と変化するそうした情況を、勝海舟を中心にたどっているのが『海舟余波』です。
さまざまな人物の思惑や行動がからみあい錯綜する中、驚異的なまでの冷静かつ強靱さで事に処す勝海舟という人物を細やかに描写しています。
海舟は江戸開城についてあらゆる策をこうじるだけでなく、最後の将軍・徳川慶喜と幕臣たちの処遇などさまざまなことを有利に導くために知略を尽くします。そして外面的には追いつめられているかにみえる、幕府側の実質的な責任者・勝海舟は実はある段階で完全に官軍側より優位に立っていたのです。
そんななかで、慶応4年(1868)4月11日の江戸開城を前にした3月23日、勝は官軍側の海軍先鋒総督大原俊実が使わした「肥前佐賀藩士島団右衛門と名乗るすこぶる謹直な武士の訪問を受け」、幕府への「裏切り」をすすめられたといいます。この島団右衛門は島義勇のことです。また、3月29日にも島義勇と夏秋又三郎の訪問を受けています。維新に乗りおくれた佐賀藩の人材もこの時期にはかなり派手な動きを見せていることがわかります。
著者は次のようにも語っています。
……、肥前佐賀藩士は幕末維新の過程で、比較的冷静に海舟の企図を見抜くことが多かったらしい。このとき文句をいったのは、過日大原総督の命を受けて海舟のもとに投降勧告に来た島団右衛門などであろうが、のちに彰義隊の掃討を強く進言するのも、やはり肥前藩士の江藤新平である。これは佐賀藩が海軍のことに長じ、また幕府に近かったために海舟の発想を直感的に理解できたためとも考えられる。
江戸城開城のあとも官軍の優位に立ち、慶喜の江戸復帰すら成功させるかに見えた海舟に挫折が訪れることになります。西郷を中心とする江戸軍政に権力移行が起こったのです。そして、その権力移行を決定づけた「情報」についても著者は言及します。
情報はもちろん江戸から到来した。そしてそれをもたらしたのは、肥前藩士江藤新平であった。江藤は去る四月十一日、江戸開城のときに、西郷や海江田とともに城の接収にむかった官軍の一員に加わっていた。このとき西郷が農事に関する書類にしか興味を示さず、海江田がしきりに軍資の所在をたずねて歩いたのに対して、江藤はひとり政治・財政に関する帳簿類を押収し、さらに国別明細図を捜索したという。おそらく江藤はこのとき、幕府にかわるべき新しいアドミニストレーションのありかたを、彼一流の冷徹な頭脳で構想しようとしていたにちがいない。それは薩のアドミニストレーションであってはならず、また幕のアドミニストレーションであってもならない。長・土・肥を含み、日本国家全体を包含すべき新しい政体が誕生しなければならないと、この奇妙に俊敏な佐賀藩士は考えていた。
これはつけ加えるまでもなく、江藤における“国家”のイメージである。そして彼にはこの“国家”のイメージを、あたうかぎり公正なものにしなければならない心理的必然性もあった。それは彼が佐賀藩士であり、佐賀藩は慶応四年正月以来の時局の急激な転換から、あやうくとりのこされかけていたからである。
慶喜とともに朝敵に指名されかけた鍋島閑叟・直大父子が、辛うじて江戸開城前後の政治過程に登場し得たのは、閑叟の隠然たる影響力もさることながら主としてその強力な海軍と最も近代化された砲兵隊のためである。このことは、三月二十六日、大坂天保山沖において新政府初の観艦式が挙行されたとき、諸藩の軍艦を尻目にかけて佐賀藩の電流丸が旗艦となる栄誉をあたえられたことからもうかがわれる。新政府は旧幕側の強大な海軍に対抗し、火力を増強するために肥前の会盟を求め、佐賀藩としては“勤皇”することによって新政府内部に発言権を確保しようとしたのである。だが江藤には、この取引はまだ脆弱なものと思われた。かれは新しい政体をあたうかぎりのオープン・ガヴァメントたらしめる必要に迫られていた。そして西郷と勝は、この江藤の行手に立ちふさがるかに見えた。
具体的にいえば、江藤には西郷吉之助が、こともあろうに勝安房守によって思う存分に手玉にとられているように見えたのである。この認識は正しかったが、江藤は道徳的憤激を感じる以上に薩幕提携によるクローズド・ガヴァメント成立の可能性を感じ、あやういかなと思ったにちがいない。この可能性を封じるためには、徹底的破壊に訴えるほかに方法はない。……
こうして主人公・勝海舟の画策は挫折し、その決定的な役割を江藤新平が果たしたのです。
ここでは、佐賀の「偉人図書館」として佐賀の人物に関わる部分を紹介しましたが、本書は勝海舟について深く切り込んだ名作です。そして、歴史を考える、あるいは人物を考える上で、私たちに多くのことを教えてくれます。
そののち大人になるにつれて、私は「歴史」は人間が主体的に創り上げるものだと考える人々に出逢うようになった。つまりそれは現存ではなくて過程であり、その過程は人間が参画することによって変えたり飛躍させたりすることができるというのである。この「歴史」は匂いと重みのある「歴史」ではなく、おそらくは「未来」と「終末」を目指す「歴史」である。だがそれを「歴史」というなら、かつて納戸の中に充満していた「歴史」とはなんなのだろうか。あの「昔」の匂いは幻だというのだろうか。いやいや、そんなはずはない。あれはもっと重いもの、動かしがたいもので、たしかに私の前に――あるいは私の上に――在り、到底勝手に創ったりこわしたりできるものとは思われなかった。
人がなんのために生きるかを、どうして予知し、予定することができるだろう。かりに「歴史」の過程に参画するためだといわれたとしても。確かなことは人がある日死ぬということだ。いま私は、時代は崩れ、人は死んで行く、それが「歴史」だ、といえるような気がしはじめている。いうまでもなくこの認識は、私たちが時代を建設しながら「未来」のために生きる、と信じることを少しも妨げはしない。しかし建設は同時に必ずなにものかを崩し、この崩壊は知らぬ間に私たちの足場を奪って行く。そしてなにかのために生きていると信じながら、私たちはもっと深いところでいったいなんのために生きているのかを問いつづけ、模索しつづけるのである。
だから建設の途上で恒に時代は崩壊し、人は正確にはだれもなんのために生きているのかを知らない。ただ人は死によって生涯を完結させるのに、建設と崩壊のダイナミズムは限りを知らないというだけだ。ここにおそらく終末論的思考のつけ入る隙がある。どうして人生が完結するように、「歴史」が完結してはいけないか。いや必ずそれは完結を目指すはずではないか、というように。だがそれは、無限のダイナミズムに苛立つ人間の願望の反映にすぎず、「歴史」はいつもその非完結性のために文学作品に一歩を譲りつづけ、同時にまたそれらを嘲笑しつづける。
それなら完結しない「歴史」のなかで、次々と完結して行く人の生というものはなんだろうか。それこそ「歴史」の現存を私たちにあかすものである。人がいなくなり、もの(傍点)がのこり、重い匂いのような「歴史」が持続する。それはあきらかに人を超えている。あの「昔」の匂いがあたえる懐かしさと畏怖は、私たちの生を超えるものを知覚したときのなつかしさと畏怖である。
と、本書の「プロローグ」で江藤淳は語ります。江藤は、「「歴史」は人間が主体的に創り上げるものだと考える人々」に向けて、「もっと重いもの、動かしがたいもので、たしかに私の前に――あるいは私の上に――在り、到底勝手に創ったりこわしたりできるものとは思われなかった」ものを提示しようと試みているのかもしれません。
私は高校を卒業後、本州のある地方都市の予備校で「江藤淳」の名をはじめて耳にしました。いつもたのしみにしていた国語講師の雑談の中でした。「江藤淳の本名は江頭淳(あつし)であり、自分がもともと佐賀の出であることを嫌って江藤というペンネームにした」というような言い方だったことを憶えています。
その真偽は別として、おそらく昭和を生きた重要な「ものかき」の一人である江藤淳が、佐賀というバックボーンを強烈に負いながら生きて、自死した人であったということは、『一族再会』を読めば痛々しいほど伝わってきます。現在入手は困難ですが、連載の最後にあえてこの一冊を上げたいと思います。
……祖母が江藤新平を終生「謀叛人」として嫌悪していたのは、この内乱の自分の生涯に対する影響を直覚していたためかも知れない。私が「江藤」とうい姓をペンネームに選んだことを知っていたら、祖母はおそらく唖然としたであろう。
本書の中で、江藤は自分のペンネームを上のように語ります。そして、
佐賀の乱がこのようなかたちで祖母のなかに痕跡をとどめているのは意外というほかない。個人の一生にはときおり思いもよらぬかたちで歴史が刻印されているものである。祖母は江藤新平も識らなければ、実際に戦争の被害を受けたわけでもなかった。その父親は官軍の海軍士官だったにもかかわらず、彼が単に佐賀藩士だったというだけで、その娘の柔い心に江藤新平の梟首に終った陰惨な内乱の影が投じられることになったのである。私は自分の家系につたわる一筋の暗いものを、佐賀の乱を想わずには考えることができない。女が男に依存して生きる以上、男が歴史からうけた傷は女の上に投影されざるを得ない。そしてこの影を子や孫につたえるのはまさしく女たちである。女は歴史的事件の痕跡を胎内に保存し、それがとうに過ぎ去ったのちになって新しい世代の中に生かしてみせるのである。女性が歴史に関してつねに受動的な被害者だと考えるのは感傷的な妄想にすぎない。女はいわば裏側からこうしてつねに歴史をつくっている。その力は正確に男が歴史をつくる力と釣り合っているのである。
しかし曾祖父が祖母にもたらしたのはそういう暗いものだけではない。そこには佐賀という風土の、南国的な濃い陽光のようなものもあった。いや、佐賀の「旧さ」が祖母の中に暗い地下水のようなものをうがったとすれば、佐賀の「新しさ」は彼女を「西欧」――「近代」に近づけた。その「旧さ」と「新しさ」が、いずれも徹底したかたちで共存しているのが、あるいは佐賀的正確というべきものなのかも知れない。祖母の場合、この「新しさ」を象徴するのはあきらかに曾祖父が選んだ海軍であった。だがそれなら、なぜ古賀喜三郎は廃藩置県のとき海軍に志したのか。もし彼が海軍士官になっていなければ、喜三郎は佐賀の乱の不平士族のひとりとして切り死にしていたであろう。この問題を解くために、私は旧藩時代の喜三郎におこったある決定的な体験について考えてみなければならない。
と、いうように、本書で、江藤淳は「母」「祖母」「祖父」「戦争」「結婚」「もう一人の祖父」とういテーマをとおして、自分と「一族」についての思索を書きつけています。ここに決定的に関わるのが「佐賀」の近代です。そして、「佐賀の乱以後海軍部内での佐賀藩出身者の位置は、はっきりと少数派のそれに転落したからである」と語られます。さらに、曾祖父にとっての佐賀の乱が、江藤の内部には大きな位置をしめることになるのです。
自分にとっての「佐賀の乱」を異様にふくらませていく江藤淳という思想家に、歪さをみとめることはできるでしょう。このような哀しい歴史を、一人の人物が自分の問題として負わねばならないのかということもできるでしょう。しかし逆に、私たちははたして「歴史」と無縁に生きられるのでしょうか?
本書は、この非常に個人的な経歴から、幕末維新の佐賀や日本に対して大きな展開を見せます。まるで小さな舟で大海へ漕ぎだすような印象を受けます。江藤淳の思索にふれると、歴史を考えるということは、あるいはきわめて個人的なもののようにも思えてきます。
ちなみに、江藤淳は『海舟余波』の「あとがき」で、この書名を巌本善治『海舟餘派』からとったことを記し、「餘派」と「余波」の相違について理由を示さず強調しています。あるいは、これは「余」、つまり「私」の意味をしのびこませたと言っているのかもしれません。
だからひとりの人間のなかでおこっていることの切実さを、実状に即してとらえようとするなら、むしろ彼のなかに内在する問題が、私たちが「時代」とか「社会」と呼んでいるものの力で、どのような表現をとることを余儀なくされたかという角度からとらえなければなるまい。それはいわば人間を、歴史を超えたものと歴史との交点としてとらえようとすることである。私たちはたしかに国民として国家に忠誠を誓わされたり、ある集団の一員としてその利益や理想に奉仕させられたりしている。しかし私たちはそのためにだけ生きているわけではない。私たちはまず単に生きているのである。いわば、生れて母親に育てられ、父親という最初の他人に出逢い、教育され、やがて自分の家族というものをつくり、そのうちに死んで行く永遠の生物学的存在として。
この事実がまず見えていなければ、実は私たちがかりに「時代」とか「社会」と呼んでいるもの、あるいは「歴史」と呼んでいるものとのかかわりあいも切実なものとして感じられるわけがない。なぜなら私たちは「歴史」のために、ないしは「時代」の理想のために生きているのではなく、生きるために「歴史」や「時代」を呼びよせているからである。ここで「生きる」というのは、もちろん単純な自己保存の欲求のことではない。私たちは「生きている」と感じたいために自己を破壊することもある。そのことをも含めて私たちは生きるために「時代」や「歴史」を呼びよせようし、あるいは拒否しようとする。
ところで、それではそうして世界を喪失しつつあると感じている私が、生きているのはなぜだろうか。この問題はもちろん簡単には答えられない。しかしおそらく私は、自分から剥落して行ったものを言葉の世界に喚び集めようとして生きているように思われる。世界を言葉におきかえること――それは実在を不在でおきかえることだ。この言葉はもとより私の言葉でなければならない。もし世界が完全なかたちで実在していたなら、当然そう感じられたであろうような親密な感触を、私とのあいだに持ち得る言葉でなければならない。
佐賀の近代を考えることは私たち自身を考えることであり、この題材はあまりにも大きく難解であることを江藤の著述は物語っています。
1999年7月21日、次の遺書とともに江藤淳にとっての「実在を不在でおきかえること」は終焉をむかえました。
心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳
(了)
(2005.8.5荷魚山人)